豊饒の海(四) 「天人五衰」 (著:三島由紀夫)

f:id:dokusyonosusume:20141115172148j:plain

豊饒の海も今回が最終話のクライマックスとなります。今まで耳にしたことのない、漢字で読んだことのない、難しい日本語が散りばめられた本作を最後まで読み切った自分に、まずは「よくやった」と褒めたいと思います。

 

さて、本作品の中に登場した言葉で印象に残ったものがあります。それは、焼き立てのホットケーキを「ふくふくとした旨さ」と表現した一文であります。ほくほく、ふわふわといったオノマトペはよく使用しますが、「ふくふく」という擬音は初めて耳にしました。

ふくふくという4文字は、①ホットケーキがふっくらと焼きあがった様子、②温かいホットケーキと溶けたバターが口の中で醸し出す幸せのハーモニー、③母親が家にいるという安心感に母の愛情、④ホットケーキの焼きあがった甘い香りが部屋に充満した幸せのひと時…これら全てを巧みに表現しています。

新しい言葉に出会い、こんなにも心が弾んだことはありません。「ふくふく」ぜひ、皆さんも使ってみてくださいね。

 

さて、本題に入りましょう。本作品では、年老いた本多が透という少年を養子に招き、衝突をするお話となります。透のわき腹にほくろが三つあることを見つけ、輪廻の証拠をその目で確かめてやろうと決断した本多。いい年になっても傍観欲は衰えていませんでした。代わって透自身も、職業柄か「見る」ことに取りつかれ、心も感情も持たない生物と化していました。他人を傷つけ困らせることだけに重きを置いている彼は、人間の悪の塊のようにも見えます。

 

そんな二人の共通点は、どちらも観察力が非常に優れている点です。透の生まれながらの悪を見抜いていた本多。透も周りの女性の本性を見抜き、本多を傷つける策まで作り上げます。人を見る目は俺のが上だと、双方が争いあっていたようにも見えました。彼らはその観察力をもってしてお互いはお互いを映し出す、写し鏡のような存在であることに気が付いていたはずなのですが…ゆえに衝突が絶えなかったのかもしれませんね。

 

転生の瞬間を目の当たりにできなかった本多は、自らの仮説の実証に失敗してしまいました。それは、透がわざと死を遠ざけ、生きながらえる道を選んだからです。このように考えると、本多VS透の戦いは、透の圧勝という形で幕を閉じたことになるでしょう。(しかし、透は自殺未遂でしたので、本当は死ぬ気であったのかもしれません。本多を敬遠し、本多を落胆させることを生きがいにしていた透は、自らの死=本多の望みと考えたはずですので、計画された自作自演の思わせ自殺であったと考えることにします。)

 

また、追い打ちをかけるように、第一作目「春の雪」で主人公の恋人であった聡子は清顕の存在をすっかり忘れていました。老人性アルツハイマーで記憶を失ったのか、彼を亡くしたショックで記憶がなくなったのか、彼の喪失という現実に耐え切れず記憶をすり替えたのか(認知的不協和)、はたまた本当に清顕は存在しなかったのか…

突然に輪廻転生のサイクルが回転を止め、時が止まってしまいました。

 

本多自身も何が何だか分からなくなってしまいます。今まで自分が追い求めてきた謎そのものの存在に確信が持てなくなってしまったのです。清顕の残した夢日記は燃やされ、彼と聡子の間の子は生まれず、本多以外に輪廻を証明するものがなくなっていました。究極のところ、今までのお話は本多が想像した夢物語にすぎなかったという結論に達してもおかしくはありません。

 

他人の熱情をもってしか生を感じられなくなってしまった本多の人生は、なんとはかないことでしょう。今ある人生は一度きりで、誰のものでもなく、自分自身のものです。自分の人生を豊かにすることも、しないことも、すべては私たち自身にかかっています。自らの人生の主人公になることを恐れず、日々邁進したいものです。