豊饒の海三 「暁の寺」(著:三島由紀夫)

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前回に引き続き、豊饒の海の第三作目に挑戦をしました。読破後、本作品を薦めてくれた外国人の友人に報告をしたところ、「大抵の人は、「春の雪」をなんとなく読み、「奔馬」の中盤で挫折するのに、よく頑張った!」と褒めてくれました。彼が日本語で読んだのかは定かでありませんが、一番すごいのは彼ですよね。

 

さて、本作品を読み解くキーワードは「客観性」と考えます。前作の清顕や勲の突拍子のない行動や終末を、本多はいつも冷静に受け止めてきました。また、彼はどんな状況に置かれても客観的に事象を捉えてきました。しかしながら、本多はその類まれなる観察力に自らを失っていきます。これを三島は「客観性の病」と表現していました。

 

客観性の病に侵された本多は、観察することにとどまってしまい、単なる傍観者と化してしまったのです。清顕や勲に足りなかったものは、立ち止まって自分たちの周りに思いをはせることでした。しかしながら、周りを見渡せば見渡すほど、己の存在性が薄らいでしまったのが本多です。恋にせよ、趣味にせよ、夫婦の生活も、どれも他人事になっていたのです。

 

確かに、他人に厳しく、自分に甘くなってしまうのが素の私たちです。他人のことはよく観察できるのに、なぜ自らをうまく観察できないのでしょうか。そこには、自らの非を「非」とジャッジできる勇気がないからではないでしょうか。

 

認知的不協和」という現象をご存じでしょうか。これは、自らの過ちを「あれは正しい(仕方なしに行った)判断だった」と、記憶を塗り替えて正当化しまう事象のことです。本当は自分の浮気で喧嘩別れをしたのだが、浮気をしたという事象が自らのマイナス要因になるため、「彼が自分に十分な愛情を注いでくれなかった故の喧嘩別れ」と、自らの行動をあくまでも正当化しようとすることです。

 

この現象から考えると、人は自らの過ちを「過ち」と認めることを非常に恐れているのだとわかります。また、あれは正しい判断だったと自分に言い聞かせることで、自分の精神状態を守ろうとします。知能を発達させて進化してきた人間ですが、自分の身を守るという概念は、動物とも同じく、生まれた時から兼ね備えている能力なのかもしれません。

 

客観性を語り、各キャラクターをそれぞれに描きだす三島自身は、誰よりも客観的思考の持ち主であったでしょう。にも関わらず、彼は客観性の病には侵されなかったのです。なぜなら、彼はよく観察し、実際に行動に移したのです。彼のやり方が良かったかは別にして、彼は傍観者にとどまらなかった。

 

奔馬」に、「知って行わざるは、ただこれ未だ知らざるなり」という引用があります。まさに三島は、知って行ったのではないでしょうか。私たちにも同じことが言えます。私の場合、語学の勉強や読書によって知識や教養を少しずつ蓄えていますが、なかなか実践する場には恵まれません。これではただの自己満足になってしまいます。そこで始めたのが本ブログ。発信することで、新たに見えてくるもの・気づくことがあるはずです。三島さんに負けないよう、自己満足で終わらぬよう、引き続き精進したいですね。